宮本百合子

 つづいて、私は或る機会で、文部省その他の役所の人々が集まってこしらえている「都市生活委員会」主催の「都市生活映画第一篇小学校」三巻を観た。主な監督者は飯田心美氏。委員制によってつくられた作品で、日本の小学校がどのように児童の衛生、学習のために注意を払っているかということを映画化したものであると説明された。主に映されているのは芝高輪の極めてモダーンな小学校である。飯田氏は、一ヵ年間の苦心になる作品であり、冬期は全く撮らなかったと言われた。画面は美に必要な光線が不足だからなのであろう。五月と秋晴れの一ヵ月の午前だけとられたそうだ。建物も整然、子供らも整然。整然。すべてこれ優等児製造はかくの如き文化性から生み出されるかという印象を与える雰囲気、画面の所謂芸術写真風な印画美であるが、私たち数人の観衆はこの文化映画として紹介されているもののつめたさに対して何か人間としてのむしゃくしゃが胸底に湧くのを禁じ得なかった。例えば児童の生活というものは、映画の画面の奇麗さのために工合のいい光線のある秋や五月の晴天だけに在るものだろうか? 冬の寒いとき、そして最も日本的な梅雨のふりつづくとき、撮影もしにくい光線と湿気との中で、ゴム長靴マント姿の学童たちの生活はどのように営まれているか。交通事故の防止のために市が子供らに払っている注意、子供ら自身の身につけている訓練。それらの点は何故撮されなかったのであろう。また、太陽燈浴室が現れるにつれて、児童の弁当の問題、学校で肝油配給をやり、また栄養給食について考慮している、そういう、現実的な部分が全くカメラからとりこぼされている。高輪の小学校でそれは必要ないことであったかもしれないが、日本の小学校と給食児童のこと、並に上級学校への入学試験準備居のこりの姿とは切っても切りはなせない。この映画が、現代小学校生活にふくまれている諸問題を真面目に率直に披瀝して識者の関心に訴えようとせず、画面の小奇麗さ、子供らの整然さだけに観衆の興味を限ろうとしているのは遺憾であった。
 三巻の映画を眺めて行くうちに、もっとユーモアを! もっと天然な子供らしさを! と切実な要求がたかまって来るのであった。文化映画は、皮相な意味の文化性から脱して、もっともっと真剣に現実に迫らなければならない。文化性というものも語をかえて云えば現実に対する強い深い合理的な認識への要求以外にないのである。

        魯迅伝から

 小田嶽夫氏の「魯迅伝」を少しずつ読んでいる。いろいろと面白い。兄である魯迅と弟である周作人との間にある悲劇は、決して一朝一夕のものではないことを感じた。
 魯迅は十三の年、可愛がってくれていた祖父が獄舎につながれるようなことになってから極度に落魄して、弟作人と一緒に母方の伯父の家にあずけられた。魯迅は「そこの家の虐遇に堪えかねて間もなく作人をそこに残して自分だけ杭州の生家へ帰った」そして、病父のためにえらい辛酸を経験した。
 作人はその間に、魯迅と一緒にあずけられた家から祖父の妾の家へ移って、勉学のかたわら獄舎の祖父の面会に行ったり、「親戚の少女と淡い、だが終生忘られない初恋を楽しんだりしていた。」
 魯迅と作人との少年時代の思い出は、このように異った二つの色調をもっている。そのちがいは、後年の社会に対する態度にも及んでいることが肯ける。二つの性格が、この二人の作家にそれだけ違う境遇をもたらしたのだった。このちがいは中国で歴史の波が大きく動くにつれてこの二人の生涯を変化させた。遂にこの兄と弟とを中国の歴史と世界の文学史のなかで、決して同一の席に据えて語ることのなくなったまでに。

        袁世凱

 一九一二年時代の孫文と袁世凱のいきさつについて語られているところも非常に興味ふかい。その時代の俤がよくわかる。ゴーリキイが書いている思い出の中に、ロシアに博覧会があったとき袁世凱が来て、いかにも支那大官らしい歩きつきで場内を見物してまわったときの情景がいきいきと描かれている。その時袁世凱がしきりにそこに陳列されていた一つの宝石をほめ、そのほめかたは、その宝石を進呈しようと云わせるまでつづくようだったということも。軍閥の巨頭袁を、立憲共和の新しい中華民国の大総統に推さざるを得なかったことが、最大の過誤であったという意味のことを孫文が述べているそうだ。中国だけにある悲劇だろうか。日本の一九四五年八月十五日以後に、東久邇の内閣があった、あり得たということは、日本歴史の上でだけの問題ではない。世界の民主主義発達史のなかの特異な一頁である。

          二

 日本の新聞の歴史は、こうして忽ち、反動的な強権との衝突の歴史となったのであるが、大正前後、第一次欧州大戦によって日本の経済の各面が膨脹したにつれて、いくつかの大新聞は純然たる一大企業として、経営されるようになって来た。利潤を追い求める企業としてのあらゆる性格と方法とを備えて来て、どっさりの金を出す広告は気狂いじみた権利を紙面に主張するようになった。各新聞の古風な商売仇的競争も、商品としての新聞の売行きのために激しく鼓舞され、記者たち一人一人の地位は、木鐸としての誇りある執筆者の立場から、大企業のサラリーマンに移って行った。記者その人々の存在は、社名入りの名刺とその旗を立てて走る自動車の威厳によって装われるようになったのであった。
 最近十数年の間戦争を強行し、非常な迅さで崩壊の途を辿った今日までの日本で、新聞がどういうものであったかは、改めて云う必要さえもない。わたし達は本来の意味では新聞というものを持たずに、何年かを過させられたのであった。
 ところで面白いのは、最近何年間かのこの輿論封殺時代に、新聞人は、却ってその前時代の散漫であった人々よりも遙かに内面的になり、批判的になり、且つ客観的な科学性をもって社会事象に向うようになったことである。新聞関係の人々は、各方面を広汎に、戦時中の社会生活の現実を目撃し、理性ある人間であるからには、それを批評せずにはいられなかった。しかし、その声は完く封じられていた。
 今日、こういう過程を経た新聞人の進歩的な要素が、わたしたち人民の、ひろく強く生き進もうとする熱意と本当に自然な一致をもって結び合わされつつあるのは、実に意義深いことだと思う。言論が客観的な真理に立つ可能とその必然をますと共に、人民の生活意識が、人間らしい欲求の自覚とその行動に進むにつれ、新聞はおのずから一転換を誘われて、再び、金儲け事業としてではない新聞の内容と組織とになろうとしている。様々の形で、そういう動きがある。
 これは、うれしく愉快なことだと思う。サラリーマンから、再び、人民の声を反映し、同時に木鐸たる記者に、自身の本質をとり戻すジャーナリストたちの新しい希望と、それに対する数千万の人々の期待は、互に苦しい時代を経ているだけに、決して表面の交歓ではないと信じている。